| ▪️MGオープン前
ーーMGのオープンは1969(昭和44)年8月7日ですね。始められる前は?
あっちゃん(浅野淳子・以下A)▪️ここが実家で、父(多久和明義)が自転車屋を営んでました。
わたし(淳子)が10歳の時に、父が病気のため41歳の若さで亡くなり、母親(弘子)は兄(富義)が自転車屋を継いでくれるとばかり思っていたところ、日本が高度成長期で自転車から車の時代になり、結局兄は島根マツダに勤めることになってね。のちにはロードバイクを取り扱うタクワサイクルを始めましたけど。
自転車屋は他の人に貸して、わたしは高校を卒業して洋裁を習うようになりました。実は母親が洋裁が上手くて、その遺伝子が少しでもあればと思ったけど、全然ダメでした。(笑)
その時に灘町にあった喫茶店で皿洗いのアルバイトもしていて、どうも洋裁よりこっちの方が性に合ってるような気がして、何軒かで見習いをしたりしていくうちに、ここでやるなら家賃もいらないし、親子が食べていけるぐらいでいいからやってみようということにだんだんとなって。
母親も一念発起して、飲食店で見習いも兼ねて働くようになり、MGで出していた焼き飯などは中華料理店で教えてもらったレシピだわね。
ーー高校時代からの常連の佐野史郎さんも、お母さんの作る焼き飯の大ファンだと言ってました。彼はお正月だけの特別メニューみたいに言ってたけれど。
A▪️いやいや、前は普通にメニューにあったよ。それで、弟(克行)も一畑百貨店のレストランでアルバイトしたりして、怖いもの知らずでオープンしました。
この間タクシーに乗ったら、運転手さんが「ワシは、MG開店の前夜祭に呼ばれて行ったよ!」って言われてね。だけど、わたしは前夜祭自体も覚えてなくて!(笑)
8月7日が開店記念日だけど、本当は8月6日のオープン予定だったところ、保健所が入ってどこそこにガラス戸がないとダメだとか言い出して。それで1日日延べになったから、6日に前夜祭をしたのかもしれんけど?

★あっちゃんの父(多久和明義)とお母さん(弘子)/お父さんとあっちゃん
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★お母さんと弟のかっちゃんと8歳ぐらいのあっちゃん。宍道湖の辺りにて。撮影はお父さん。
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▪️店構え
ーーオープン当初と店構えは変わらず?
A▪️最初はね、お金がないので床はセメント。ただ壁とドアは檜にしました。その頃、片原に木味屋という工務店があって、ちょうどそこにおられた造形作家の藤田丈さんに選んでもらった木の椅子は55年経ってもまだ使ってます。藤田さんは京都出身で、こっちの人とちょっと感覚が違ってたね。
ーー壁に飾ってある木製のMGのロゴも?
A▪️藤田さんだと思う。あの人がおらんだったら、こんな雰囲気にはなってなかったかも。
カウンターは二代目で、床をセメントから木に張り替えたときに替えたかもっせん!
ーー入り口のドアのカランコロンも最初から?
A▪️あれは店のお客さんがプレゼントしてごしなった。いまや中の球が落ちて音がせんけんね。(笑)

★あっちゃんと母親の弘子さん、弟の克行さん
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▪️お母さんの味
ーーでは、お店を始める段になって、コーヒーを淹れる、料理を出すといった仕事は三人とも準備万端だったわけですね。
A▪️️コーヒーもはじめはネルドリップで、サイホンでも淹れてたけど、ガラスがよく割れてね。今はペーパーフィルターで淹れてます。最初はUCCからコーヒー豆をもらっていて、次に中原の皇盧亭という珈琲屋さんからもらうようになって、今は松浦珈琲。
ーーカツ丼は最初からあったんですか?
A▪️️カツ丼はね、わたしがアルバイトをしている時に賄いの当番が来て、カツ丼を作って出したところ大好評で、お店を立ち上げるときに母親にそのことを言ったら、母親が出汁をとったり、ヒレ肉を使うように工夫して完成しました。だから、味付けは全て母親の味! MGの料理は母親抜きにしては語れません。かぼちゃのカツなんかも、母親が本を読んで研究して出すようになりました。
ーーお味噌汁や漬物も美味しくて好きですよ。
A▪️️お味噌汁は米と麦の合わせ味噌で、時々シジミが入ったり、漬物はわたしの手作りです。
ーー当時のメニューにはカツライスというのもありますね。
A▪️️カレー用の銀の皿にロースカツにデミグラスソース。このデミグラスソースをどげしちょったかが分からんけど、手間かけて作っちょったよ。だけん、今でもカツライスが食べたいと言いなる人が居られるけんね。
ぜんざいやプリンも手作りしてたし、スパゲティもナポリタンにミートソースもありました。スパゲティをどげして茹でてたか、注文が入ってから茹でてたとは思うけど、思い出せんわ!
ーー厨房はお母さんと弟さん、外をあっちゃんがやるという手分けで?
A▪️️最初は母親と弟とわたしの3人でやっちょったけど、2、3年経って、弟もまだ若いからと東京に出て、8年くらいは母親とわたしで朝から晩までやっちょったよ。
弟は東京でとんかつ屋さんに入って修行してね。
ーーそれで揚げ物が上手なんだ!
A▪️️そこから、わたしが30歳で結婚する段になって、克っちゃんに東京から帰ってきてもらって、母親から厨房を引き継ぐようになったね。
ーーその頃はお母さんはまだお元気で?
A▪️️母親も70代までは一緒に働いちょったけど、脳の病気をして、80代になるとだんだん仕事が出来なくなって来てね。一番ショックだったのは、カツ丼の出汁も一から母親が作っていたのに、ある日作り方がわからなくなってね。親鶏をまず煮沸するんだけど、その煮沸も出来んようになって、それを見てわたしも我が目を疑って……
でも、やっぱりMGの最大の功労者は母親じゃないかと思うけどね。料理はできるし、帳簿のこともみんな母親がやってたし、男に産まれてもよかったぐらい何でも出来る人だったよ。
母親は自転車屋ですごく苦労した人で、掛けだったり貰えなかったりとお金の苦労もした人だから、この商売は現金で、向こうからお客さんが来てくれる、こんなありがたい商売はないと何時も言っちょったわね。
流石にここまで長く続くとは思ってなかったけど、皆さんとの出会いで55周年を迎えることができて、それがわたしのいちばんの宝物だわ!

★喫茶MG40周年記念コンサートでの家族写真
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▪️お客さんの変化
ーーお客さんは大学生の人たちとか?
A▪️️最初の頃はわたしや兄弟の知り合いが主だったけど、70年安保の時代になって、大学生が島大からデモ行進をするわけだね。その終点がここの近くの末次公園で、デモ行進を解散してお腹が空いちょう大学生がなだれ込んで来てご飯を食べるようになってね。
だけん、島大の人がたくさん来るようになったんだわ。じゃないと遠い島大からなかなか来んけんね。
ーー報道の人も多く来てますね。これは?
A▪️️今や有名になった池上彰さんなんかも、松江のNHK時代(1973~78)にそのデモ行進を取材した帰りに寄ってくれるようになったみたい。
ーー池上さんはMG50周年の時も祝電を送ってくれましたね。
A▪️️今でも変わらずにね!
あと、報道の人たちは最初近くの県警回りをするので、そこを取材して帰りにここでご飯を食べるという流れになったみたい。報道の人たちは異動になると必ず後輩を連れて来てくれるので、代々来てくれるようになったね。
ーー55年の間に客層の変化などはありました?
A▪️️弟がウィンドサーフィンをするようになって、ボードやTシャツを販売するようになったので、ウィンドサーフィン関係のお客さんが来なるようになりました。
市役所も県庁も近い官庁街だから、そんなお客さんたちも来てくれてた。
ーー高校生はやっぱり近場の北高が多かったですか?
A▪️️近所の肉のキタガキが片原にある頃、そこのケンちゃんが北高生の時に友達を連れて来てくれるようになって、そこからどんどん北高生が来てくれるようになったね。それが3、4年ぐらい続いたかな。
ーー南高は佐野史郎、山本恭司といった世代の人たちが来てましたね。
A▪️️あんな遠いところからよく来てごいてたね。
この年は工業の男ん子が多かったとか、次の年は商業の女の子が多かったとか、女子校が多かったとか、高校生は年毎に変わってた。
いまは学生さんは来ならんようになったけどね。
ーー学生はファミレスとかファストフードに行くから。
A▪️️最近はネットの時代だから、そこで知った初めての人たちがたくさんお見えになります。

★30周年記念パーティの集合写真
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▪️ミュージシャン
ーーMGに来るといつもかかっているいろんな音楽を聴くのが楽しみでしたけれど、ミュージシャンのライブやコンサートも何度かやりましたね。最初のライブは?
A▪️️高田渡さんに来てもらったのは最初の頃だったとは思うけど、どういう伝手で来なーよーになったか分からんが! 最初はここの二階に泊まーなったけんね。斉藤哲夫さんもここでライブして、二階に泊まーなった。その頃はビジネスホテルなんかないけん、泊まれればどこでもいいわってね。
ーーじゃあ、最初は渡さん?
A▪️️いやー、それが渡さんだったやら(西岡)恭蔵さんだったやら? 恭蔵さんに(大塚)まさじさんにも来てもらったし、中川イサトさんにも来てもらった。
ーーそれは、あっちゃんから連絡して?
A▪️️昔はいついつライブがしたいけどと、向こうから連絡があったかもしれん。他にライブハウスも何にもないけん、あそこはやらしてくれるよっていうことで電話が掛かってきたのかもしれんね。
渡さんに「ここの二階で泊ってもらいましたよ」って言ったら、覚えちょならんだったけどね。(笑)
渡さんは早起きで、朝2階から降りて窓際の椅子で詩かなんかを書いちょられた。
ーー平成11(1999)年10月9日、松江のホテル宍道湖で「MG30周年記念」のライヴ&パーティを開催したのが初めての大きいコンサート?
A▪️️25周年の時にアーバンホテルで60人ほどのパーティをしたけど、コンサートなどはなくてね。30周年のあと2、3年経ってまた出来るかなと思って、MG35周年記念ライヴ「Eternal Rhythm」を島根県民会館中ホールでやって、40周年「Eternal Rhythm」、45周年「MG育ち」、50周年「秋一番コンサート」と続けて、ついに55周年。
ーー渡さんは何度も来てくれたし、エンケン(遠藤賢司)さんは亡くなってから加賀に散骨にも行きましたね。
A▪️️エンケンさんも何度も来てもらって、45周年の「MG育ち」の時に来てもらわなかったのが悔やまれるね。

★上から35周年記念、40
周年記念、45周年記念、50周年記念、55周年記念コンサートの集合写真
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構成・オガワコウ |